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第78稿 石の桶

 一年前、チベットから玄関前に飼葉入れであろうか水入れであろうか、石材をくりぬいたモノが運び込まれ二つ並んでいる。並べるだけでは色気も無いので、紅白二種の蓮を植えている。梅雨も終わる頃には幾つかは花も見られる。
 この石の桶には色々な生き物が係わっている。現在、水中には「カブトエビ」「ミジンコ」「オタマジャクシ」「ヤゴ」「赤虫、ボウフラ」、水中を離れ「ミズスマシ」「雨蛙」。たまに「猫」「犬」(水飲み)。人間(ボウフラ取り)。糸蜻蛉、蜂等色々と姿を見ることが出来る。
 水は生命の源、と聴く。確かに、陸に住んでも、空に住んでも、水の中に住んでも水が無ければ生きていけない。ガソリン1リッターよりペットボトルの水の方が高価である。

 それはさておき
 石桶の水に集まる生き物の寿命はどれほどなのか、ふと思った。この空間を、水を枯らさずに世話さえすれば、蓮が一番長生きするであろう。後は、ほとんどか1年と言う事になる。時間の理論についてはよくわからない、理解しているのは「変化」と言うことである。

 身近に理解できる変化と、全く感じない変化。成長と老化みたいなモノである。 生命だけでは無い。赤道では音速を超える速度で移動していても感じない。地球も宇宙空間の移動速度で申し明けるならば、私どもには全くその速度を感じない。見上げた満月の位置は、四時間前の地球の位置になるとか・・・。

 総てが変化し続けている。こうやって訳のわからぬ事を書いている間も変化は止まらない。後、30年すれば生きているやら死んでいるやら、ましてこの先のことは誰も解らない。今日の晩に愚僧オサラバしているかもしれない。変化を数字に置き換え何やら解らぬまま、年、日、時間と言う不安定な観念で予定を立て、約束したりと、只毎日を過ごしている。

 で、その過ごし方をどうするか

 石の桶の中でボウフラは、「水が涸れたら」「石の桶が割れたら」などと思うこと無く只生きている。
 肩書き、財産、プライド振りかざし。過去の記憶に振り回され。今、生きている命に目もくれず。果たして、それが私達の生き方では無い。

 石の桶の前しゃがみ込んで、ミジンコを見ながら、ここまで読んで頂いた様な妄想の世界にドップリと浸かって毎日遊んで居る。

 今日一日を振り返ると、私達は一日どころか人生の殆どを好きだ嫌いだ。損した得した。はたまた、過ぎた事に気をとられ「アーデモ無い、コーデモ無い」と心配したり、怒ったり、笑ったり、自分の生み出した思いに悩んだりと次から次へと役にも立たない妄想の世界に落ち込み過ごしては居りませでしょうか。ミジンコやボウフラに生き方を学ぶ事も遊びの世界。

ダイモン合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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