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第69稿 男はもちろん、女もブラブラ

 5月5日、和歌山県戦没者慰霊祭に出席をした。隣の和尚さん曰く「今年は知事が来とる、のーーー。去年は代理・・・(後の言葉は聞き取れなかった)」この法要は、毎年行われている。
 で、法要の話ではない。とりあえず、数珠の話。

 種類で分けると、念珠と看経に区別される。細かいことは、珠数屋さんか、仏具屋さん。宗派によって様々な点で違う部分がある。その辺は、菩提寺の和尚さんにお聞きください。
 数珠は紐でまとめられている。どこかで結ばねば成らない。在家さんは一般的にはぼんぼりの房が多い。又は、紐を組んでいる。108個の珠で組まれているもの、その半分なり、三分の一なり珠の大きさによっても様々ではあるが、組み込む珠の数には計算方法が有る。
 ただ持ち方は同じである。しかしながら100人居れば正しく持っておられる方は、一人居るか居ないか。つまり、全員ブラブラと怪しげな持ち方をしている。
多数として、房を下に持たれている。本来は、房・結び目(親玉)を上にする。その様に学び教えられてきた。ただ各宗派和尚さん方の持ち方を見て居ると、中には房なり結び目を下にされている方もおられる。ネットで検索(在家さん向けのみ)した範囲では房は下との記述しかない。さてどちらが、正しいのか。

 北畠親房著「神皇正統記」52代29世 嵯峨天皇 の項、部分 一宗に志ある人余宗をそしりいやしむ、大きなるあやまり也。人の機根品々なれば、教法も無尽也。況んや、我が信ずる宗をだにあきらめずして、未だ知らざる教をそしらむは極たる罪業なり。我は此宗に帰し、人は彼宗に心ざす。共に随分の益あるべし。是皆今生一世の値遇にあらず。国の主とも成り、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして、得益のひろからむ事を思い給べき也。且は仏教にかぎらず、儒道二教、もろもろの道、いやしき芸までもおこし用うるを聖代と云べき也。(改造文庫 昭和17年16版 宮地直一校註 より抜粋 旧表記、旧漢字、カタカナはひらがなに置き換えています)

 嵯峨天皇の言葉を受け入れれば、どちらが正しい間違いというのではなく「教法も無尽なり」で、落ち着く。今から約1200年前の人の言葉ではあるが、今日でも生き生きとした言葉として受け入れられる。私が正しく、あなたが間違い。と、友達同士、兄弟、親子、夫婦、メンツと肩書き、果ては国同士で諍いの絶えないのは古今の常。裏を返せば、総て私の損得勘定ご都合主義。我の張り合いということになる。「国の主とも成り、輔政の人ともなりなば、諸教をすてず、機をもらさずして、得益のひろからむ事を思い給べき也。」である。

 房が上か下か、教義、学問、理屈も大事である。が、形式にこだわりて自分の首を絞め苦しむのは自身。
男はもちろん、女もブラブラ。大いに結構。
ダイモン 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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