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第60稿 三輪清浄

 先般の地震と津波以来「義援金・支援物資」の聞かない日々は無い。先日仕事で大阪・京都・神戸と二日おきに日帰りで出かけた。繁華街での多くの義援募金を呼びかける姿を見てきた。当然地元では名前を聞けば誰もが知っている団体そして身元もわからない団体、彼らは声高らかに行き交う人に呼びかけている。暫く見ていると、身元のわからない団体に同じ人が繰り返し募金に応じている。が、なかなか世間は賢い。つまり「サクラ」と言う事であろう。街頭募金についてもう少し行政や警察も目を配る必要がある。余りにも露骨に観察していたのでその集団は場所を移動していった。その後は知らない。その帰り身元の判る団体は同じ場所に留まっていた。

 広辞苑には「義」とは「利害をすてて条理にしたがい、人道・公共のためにつくすこと」、「援」は「助ける」、「義援」は「個人も国家もお互いの利害関係、損得勘定を捨て助ける」と言う事になる。 此処で気になる「助ける」は「相手」の事か「お互い」かである。ボンサン的に見れば「お互い」である。

 「義援金も支援物資」もボンサンの言葉では「布施or喜捨」。

 日本人の使用する言葉として布施・喜捨は、西洋的「施し」と掛け離れた意味を持っている。裕福な者が貧しき者へ与える義務が有り、貧しき者は富める者から受ける権利がある。と言うのが西洋的思想。東洋では貧富に関係なく互いに布施(喜捨)を行うと言う思想。

 互いに布施、「貧乏人が金持ちに布施をする」と言う面白い思考である。言葉を換えよう。「若者が老人に席を譲る」そして「老人は若者に笑顔を返す」。この構図がお互いに「布施」をする、と言う事である。布施や喜捨と聞くと「MONEY」と思考は捉えるが、お金意外に、席を譲る事も、ニッコリ微笑む事も、怒り叱りつける事も総て「布施」に成る。その基本的な事はただ一つ「脳味噌を使わぬ事」。脳味噌を使わぬ事が布施の「条理」で有って、お互いに条理の上に乗っかって生きていく事が、「人道・公共のためにつくす」と言う事とに成る。 脳味噌を使えば必ずしや、損得勘定、利害関係とややこしくなる。

 「布施をする側」、「受ける側」そして「施物」此の3点が揃わなければ互いに布施をするとはならない。どうも「布施」と言うと解り辛いので「私に要らない物」としておこう。要らない物を差し出されて、断るに断れず渋々受け取る。受け取らなければ今後の付き合いも難しい。もしかすると、人の親切を仇で返す事になる。脳味噌を使えば誰しもが利害関係に損得勘定に苦しむ事になる。受ける側からの感情は時として、私たちは要らぬ親切、お節介と捉える事がある。布施を受ける事も又同じく、相対する者への布施である。 布施する側より、布施を受ける側に多くの問題が孕んでいる。

 布施をするより布施される側の方が世間的に難しく思える。まして、要らない物となれば尚更ややこしくなっていく。要る物要らぬ物、損得勘定さえ起こさなければ有り難く受け取れるはずである。それも又「布施」である。つまり「施物」を媒体に貧富・性別・肩書きを越え、お互いが「布施・喜捨」する構造になる。是を「三輪清浄の法」と言う。

 先人は「人の親切はいつでも受けよ」と言い残した。義援金や支援物資、支援ボランティア諸氏。多くの国々。其の志には何か見返りを期待して活動を行っている訳では無い。損得を言い出せば、世間は冷たい目で見る。布施・喜捨する側、布施・喜捨を受ける側と施物。損得利害を持たない行為としてこの三つが揃うと「三輪清浄」と言う。
 義援金の金額だけが世間を行き交う、多いの少ないの。あれが足らぬ、是が足らぬ。現実の問題である事も事実である。

 しかし施物を受ける側に、多い少ない、要る要らないと言う感情が僅かでも動けば「三輪清浄」では無い。

 先人の言う通り「親切はいつでも受けよ」。それだけで良いではないか。

大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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