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第54稿 小と大

 西暦1989年、日本では慣れ親しんだ「昭和」から「平成」に元号が変わった。
 話は二十一年前である。



 天安門事件の三ヶ月後ベルリンの壁崩壊の一月前、東ベルリン駅プラットホームに6人か7人の警備兵に囲まれ意味のわからぬドイツ語で責め立てられていた。隠れて撮っていた写真が原因である。しかし、何処かに連れて行く素振りもない。同行(臨済宗僧侶)の4人は知らん顔、確かに正しい選択で有る。パスポートの提示も言わない、カメラも取り上げない。気がついた、賄賂の請求である。ドル紙幣は万能である、急転直下の集合写真。共産圏に足を踏み入れて数分の出来事である。その時、まさかベルリンの壁が崩壊するとは想いもしない。翌々年ソビエト連邦共産主義国家の消滅。三年間の出来事であった。それは、ポーランド・ワルシャワにて第四回世界宗教者平和会議に参加する旅路の記憶。



 ポーランドではその時インフレの真っ最中、ドルとの交換レートは常に上昇。ワルシャワ駅で八時間以上並んで隣国チェコへの列車の切符を手に入れたのも鮮明な記憶として残っている。ヨーロッパでの移動は総て鉄道を使った、出入国審査のスタンプは電車のデザイン。夜中に出発、早朝に到着、宿泊費をかけない貧乏な旅である。
 国際列車といえど、まさか深夜車内販売があるとは思っていなかった。買い込んだパン・水・サラミソーセイジはとっくに無くなっている。後で1人合流して6人は、寝るでなく喋るでなく只座っていた。ノックの音にドアを開けると想像もしなかった車内販売、買えるだけビールを買った。その時、車内販売の青年が後ずさりしたのはよっぽど酷い人相をしていたのか、予想もしない「ビールくれ」の合唱であったのか全く記憶にない。



 ヨーロッパからの帰路、中国に寄った。と言うよりも寄らされた。格安チケット故なのか中華民航の罠なのか。二十四時間以上滞在するとビザが要った。何があるか判らない、無駄と思いつつビザはとっていた。
 北京から上海そして伊丹のルートで帰国予定。北京で「出境」のスタンプを貰う。問題は上海で「入国から二十四時間過ぎている、罰金払え」との事。言い分は「上海での出国審査を北京でした、北京から上海は国内線である」。いい加減にも程がある。しかし無駄の恩恵に助けられた。
 そういえば日本へのスポーツ親善団体と北京から乗り合わせていた。大声で喋る喋る、一人はリンゴの皮をナイフで削っている。あまりのうるささに怒鳴り散らした、静かにはなったが下手をすれば窓の外に放り出されたかもしれない。
 その国で今、ノーベル平和賞の影響は共産主義体制にどんな風を吹かすのか、24時間に満たない滞在の間、日本人は絶対入らない裏道や脇道を歩き回った。ベンツに乗ったアロハシャツの若者、荷物満載のリヤカーを引く老人。入るに入れなかった公衆便所。美味しい包子、腹を温めたお粥。地図を頼りに天安門広場に近づくと兵士に「不来」と言われ、小銃で突き飛ばされた。

 三年先否、一年先の世界地図も明日のことも判らない。

ダイモン 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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