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第49稿 七転 そして…

 「七転八起」「七転八倒」一文字の違いで随分と意味の違う事になってしまう。十七年前此方の寺に縁を頂き、彼方此方に報告を兼ね近況報告をした。返信の一つに「七転び八起きとなるか七転八倒となるか」のコメントを頂いた。差し出し主は某大学の副学長、この方には随分とただ酒をご馳走になっている。閑話さておき、今のところ「起」とも「倒」とも自覚がない。しかしながら「七転び」どころかそれ以上に日々転んでいるように感じる。

 「起」と「倒」対照的な言葉である。私たちの生活には必ず対照的な言葉を必要としている。善と悪、美と醜、損と得。しかしながら、それらは比べると言うことが前提の話であり哲学的に申し上げるならば、人間がある対象を意識したときに抱くあくまでも主観的な形象なり観念であります。言い換えると、意識しなければ元々善も悪も、美も醜も、損も得も無いと言うことになります。

 暑い寒い、これも亦同じ。唯一の情報として過去の体験と記憶から今の状態と比べることによって暑い寒いとなる。比べる情報も体験も記憶も無ければ、暑い寒い、損した得した善だ悪だと言う意識は生まれてこない。

 天正十年(1582)織田信長は武田を攻め滅ぼす。武田信玄の位牌所となっていた慧林寺へ続いて攻め込む。信長は百人からの修行僧と和尚を山門に追い込み火を放つ。焼き殺されつつある中、修行僧の指導者であった「快川紹喜(かいせんしょうき)和尚」の言葉が有名である。「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火自ずから涼し」只世間では「火も亦涼し」と広く行き渡っている。絶対的に熱いモノを冷たいとは言えない、確かに熱い冷たいも経験によるが、意識的に考えて出てくる結論ではない。無意識の状態で考える前に出てくる反応である。「火も亦涼し」というのは関西圏で言うところの「ええ格好しい」となる。

 絶対的に熱い火を熱いと言わず、涼しいと言うのは幾分へそ曲がりの感もあるが経験と記憶がなければ表現の方法が無くなってしまう。そうなると、どう喚いても熱いも涼しいもその一つの状態には変わりない。まさに、対照的な意識から離れその一瞬をそのまま受け入れた言葉となります。「火自ずから涼し」と言いつつ、炎に焼かれ「熱い熱い」と将に七転八倒。

 梅雨が終わって挨拶は「暑いですな」。お寺は山の際、一日中風が絶えない。関西は八月盆、玄関に立つ人は口を揃えて「アアー、お寺は涼しいですな」開放できる窓や扉総て開けっ放し。二十四時間住んでいる私にとっては「暑い」そして日中は風の抜ける所に「倒」れている。午後三時頃になると「起」きる。そして「ああー、暑つ」間違っても「涼し」とは口から出ない。

皆様、残暑お見舞い申し上げます。
だいもん 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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