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第47稿 …も、関係なくツバメの親は

 時間とは至って便利且つ厄介な物差しである、昨日、去年、明日、来年と他人と約束事をするのに欠かせない。さりとて、時間に追われ時間に束縛され身動きできないこともある。さらに、過去の記憶に喜んだり悲しんだり。

 私たちの生活から時間が無くなればどうなるのか、ノンビリ出来るのであろうかそれとも二進も三進も(にっちもさっちも)出来なくなるのか。

 誰しもが経験があるはず。いやな時間は過ぎるのが遅いし、楽しければ早く過ぎ往く。損得(生まれてから身につけた好き嫌い)感情(勘定)で判断することもあれば、時間と感情に支配され無いこともある。

 スケールを大きくすると宇宙の「時間」を研究している方も居る。隣の座布団に移動する時間も、宇宙の果てに移動する時間も理論とすれば同じであるが、その先の話になると「空間と移動」が追加され此方は理解する脳みそを持ち合わせ居てない。

 時間は、宗教や民族によって物語の違いはあるが、どのように生じたのか、場面設定は様々であるが古今東西多くの話がある。

 インド神話では、地獄の大王「閻魔様」で有名な「ヤマ」が亡くなる。双生児の妹であり妻である「ヤミー」(近親相姦であるがヤマは人間一号、二号がヤミー。他に人間が居ないからそういう関係、深く詮索はしない)は常に嘆き悲しみ「ヤマが死んだ」と口にするのを神々は哀れみ、夜を作った。それからは「昨日」に成り、「去年」になった。ヤミーの悲しみは徐々に薄れたという。昼夜(時間)の生まれた物語がある。

 禅の捉え方で見ていくならば、過去も未来も無い。現在も常に過去となっていく。ならば、何があるのか。「今」「此処」「わたし」の三つの要素だけ。そこには時間は無い、あるのは「命」。一つしかない命を持っていることも自覚せず、好き嫌いだけの感情をあたかも人格と取り違え私たちは今を過ごしている。此処に存在しているわたし自身に気がつかない。

 そんな腹の足しにも成らない訳の判らん話をするのは人間だけ

 玄関に来訪者来たり、兼務の寺に移動するため余裕のあった時間も無くなり、それでも来訪者の話は続く。二進も三進も出来ず話の終わる糸口を探している間も、関係なくツバメの親は 一進 雛に餌を運ぶ。

だいもん 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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