茶柱横町 茶柱横町入口へ
 
 
プロフィールを見る
前を見る 次を見る

第45稿 息 と 生

 母の腹の中では、酸素も栄養も直接ではなく薄い膜を介して供給されている。ある日突然、母の腹から出てきたその時から自分で息をしなくてはならないし、栄養も取らなくてはならない。
 誰も自分の誕生時を覚えてはいない。周りの者から言わせると「オギャー」である。 その「オギャー」は吸った息の音ではない。この世に生まれ出て初めて吐いた息の音である。どうやって空気を吸ったのだろうか。
 呼吸反射と言われるが、自発的に空気を吸い込むと言うことであるが、初めの呼吸は大気圧が一番の要因と勝手に思っている。自発的な呼吸は2度目からではないのか、医学的なことは専門の人にお聞きください。

 母の腹から出てから将に息を引き取る迄、意識もせず呼吸をし続けている。そうすると、生きると言うことは、息をすると言うこと。息をせずに『生き』は無い。 時間は流れ必ず訪れる最期の時、息を吐いて生を終える。息を吸ったままの人は居ない。特別な場合を除いて間違いなく息を吐いて終わる。息を吐いて、生まれたと言われ。息を吐いて、生を終えたと言われる。

息を整える。つまり、自身を整える
 息の仕方、リズムの乱れは、そのまま、生き方や心の乱れになっていく。息を分解すると「自」「心」に分かれ、自分の心の状態がそのまま「息」に現れる。
 息が荒れている時、私達は心も乱れてはいないだろうか。喚き合って喧嘩をしている人達の呼吸は安定しているのだろうか。泣き叫んでいる時呼吸はどうなっているのだろうか。

吸うよりも吐く方が大事
 坐禅は、息を整え、身体を整え、心を整える。この三点を一つにする事が坐禅。息を整えようとすれば息のしやすい体勢を保たねば成らない。息のしやすい体勢を保ち、慌てずユックリと呼吸すれば自ずから心が落ち着いてくる。
 呼吸の仕方、座り方のややこしいことは飛ばし、ユックリと大きく吐いて吐いて吐いて、もう肺の何処にも空気がないとこまで吐いて直ぐに息をしない。少し止めてから、慌てずに沢山空気を吸う。
 一遍上人は「吸う息に誕生を想い、吐く息に臨終を思え」と言われている。記憶のない誕生と経験のない臨終を繰り返す事が、今、生き(息を)続けているると言う事に他ならない。
 慣れない足を組む必要はない。椅子に腰掛け、布団の上で、バス停で、電車の中で、何処でもできる。基本は習うべきであろうが、基本から離れずにすれば何処ででもできる坐禅の呼吸法。
 因みに、胸式呼吸ではなく腹式呼吸。話がだんだんややこしくなっていくので終わり。フーーーーーー

大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

バックナンバーINDEX
前を見る 次を見る
| 著作権について | このページのトップへ | 茶柱横町入口へ |