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第20稿 禅的に命を見つめ直す

 命 今を遡ること2550年前、人類で有ることに初めて気づかれた釈尊が誕生した。4月8日とされている。
 1度ならず聞く言葉「 尊厳な 命 」何が尊厳なのか。

 尊厳と言われる命を見つめる前に、禅的に命を見つめ直していきたい。
 9年にわたる苦行に釈尊の探し求めた答えはなかった。今日もインドでは苦行と称する修行をされている人々は確かに存在する。何十年も横にならずブランコのようなモノに寄りかかって生活をする人、極端な食生活をする人、様々である。
 その行為を否定も肯定もしない。しかし釈尊が気づかれたそれらの行為は無為であることを、その見方は間違いのない事実である。

 人は疲れれば横になって休む。おなかがすけば食事を頂く。実に自然なことを否定することは修行とは言えない。
 当時インドでは、様々な苦行を繰り返すことによって苦行者は来世に幸福な人生があると信じ、現世の苦しみから逃れる希望として日々を送った。釈尊もその一人であった。

 ある日釈尊は苦行の無為に気づき、苦行林を後にする。ニレンゼンガを渡りスジャータに乳粥の供養を受けブッダカヤにたどり着く菩提樹の元に瞑想すること7日7晩、8日目の朝、対立する意識から解放された。

 よく山田無文老師が口にされていた「奇ナル哉、奇ナル哉、一切衆生悉ク皆、如来ノ智慧徳相ヲ具有ス。但妄想執着ヲ以テノ故ニ證得セズ」−−−お釈迦様は驚かられた、好きだ嫌いだ、得した損した、大きい小さいと欲まみれの我々一人一人が、如来の智慧徳相を生まれながらに持ち合わせているじゃないか。ただ、妄想と執着に振り回されて如来の智慧徳相を見失っている。−−−と12月8日暁の明星を見てお悟りを開いた時はっせられた言葉と何度も聞いた。

 妄想と執着は意識の世界、意識は対立の世界。大は国と国、民族と民族、宗教と宗教。−−−個人に至っては、暑い寒い。高い低い。他に至って数知れず。確かに対立する考えや感覚などによって我々は物事を判断する。自分にとって相手にとってプラスかマイナスか。否定はしない。対立の意識世界は生まれてからの学習や体験から生まれた感覚である。だれしも生まれながらに損得勘定は持ち合わせてはいなかった。妄想年々積み重ねて執着を固め、対立する意識の世界だけに生きている。

 生まれ出でてからの記憶は我々の判断基準となるが、時代 文化 風土 宗教 によって人様々。その記憶は対立する意識を生み出し自身の「迷い」「苦しみ」と成る。「生と死」「善と悪」「私と他者」対立する意識、それもまた現実。釈尊はその対立する意識、時代を超えてありとあらゆる記憶から人類で初めて、妄想と執着から解放された意識(無為な無意識ではない)を自覚した。対立のない意識。母から生まれる以前、宇宙の誕生以前から持ち合わせている意識。先人は万物同根と表現し、般若と音訳し、阿耨多羅三藐三菩提と漢訳してきた。また、悟り、目覚め、自覚と形容してきた。

 森羅万象今ここに対立する意識から離れ、阿耨多羅三藐三菩提(人類が普遍的に持ち合わせている、完成された人格)尊厳なる人格に気づくことが、そのまま「尊厳な命」に気づくことである。只生きている命を、理屈として尊厳な命と言うのであれば対立した「生と死」からの視点であって尊厳という冠詞はつかない。理屈を離れ理論から離れた処から目を向けなくては「如来の智慧徳相」から見える「命」に気づけない。

どうすれば、見えてくるのかは次回・・・

だいもん合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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