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第17稿 ぼやけた答えを考えたい。

 ホスピスという言葉は今では多くの人が知っている。その場所に行く縁は確かに少なく限られている。言い換えれば関係のない世界。ドキュメンタリー番組で取り上げられる事も多い。主人公は3人、誰より先に死なねばならない本人、医者、家族、。時として、本人が後になることもある。医療問題、病院経営を絡め、「生と死」を関係者の姿を織り交ぜた構成で成り立っている。しかし「生と死」を万人がどのように捉えるのか、ぼやけた答えに終始している部分も有る様に感じる。

 ホスピスへ私自身足を運んだ記憶は多くはなく、少ない。しかし、別れを前提に会いに行った事はない。近況を聴いたり聴かれたり、しかし共通するのは自己の死後の様々な心配である。必ず同じ返事をしている。「今を只生きて、後は生きている人間に任せなさい。そんなこと考えるのは出来損ないのインテリのすること。お互い明日は判らん。」半数以上はそれ以来縁者に死後についての言葉を発していない。と、後に「あれ以来一言も言いませんでしたわ」と聞く。しかし、「死んでの後の心配事ばかり言うてました」とも聞く。

 私自身、ホスピスに目を向けた行動はない。亡くなった家内はホスピスを探していた。気に入った場所を探せなかったのではない。探す時間が無かった。確かにその頃でも、ホスピスについての書物は沢山出ていた。何冊かは読んでいたであろうと想う、が、本についての感想は何一つ残っていない。白浜町にある「はまゆう病院」を最後と選んだのも、M医師を選んだのも本人であった。そのことは、ホスピスと関連づけて長い文が残っている。

ホスピスについては、各自興味を持って調べてください。

ぼやけた答えを考えたい。

 我々は、線を引きたがる。確かに線を引くことで右と左が生まれる。釈尊存命の時、質問を受ける。「生と死の判断」釈尊は答える「息が止まり、心臓の動きが止まり、体温が下がる。この3つが重なった時を人の死とする。」長い時間医学の世界ではそれを守ってきた、人の死の基準を決めたのは釈尊であった。今日は瞳孔拡散、脳の停止と死の基準も変化している事は、どなたも知るところである。今に新たな基準が生まれるのか、ややこしくなる。斯くして、3つの要素が死に対する線引きになった。それ以前はどうであったのか、私には知るよしもない。もしかすると生と死の境は一人一人が考える前に教え込まれたのでは無かろうか。小さい頃、泥団子を作り泥まみれになって遊んだ。親は必ず言う「汚い」と、知らず知らず楽しい意識は汚いと言う意識になっていく。

 今我々の理解している生と死の境は教えられたあやふやな理解であって本当の理解ではない。故に、ぼやけた答えになっているのでは。つまり、本来我々には生と死が無い。現実的には、今まで動き喋っていた人が動かず喋らず。次第に腐り、虫がわき、骨だけになっていく。しかも、いなかったモノが目の前に現れたりもする。不思議な事である。

 生と死の線引きをして以来、我々は生を喜び死に恐れ、生に苦しみ死を願う。

 生と死を離れた世界と観ているかぎり「生と死」を理解できない。どのような世界か、自我の意識から解き放された世界。自分と他の境が無い世界。客観がなく主観だけの世界。総てが自分の世界。主観だけであるから他の世界を認識する事は不用。つまり、記憶も体験も必要ない。母から生まれ落ちたままで不足するモノはない。客観の世界を否定するのではない、客観の世界は主観の世界が飲み込みさらに主観の世界も必要としない。

 僅かでも心動けばその世界から離れる。主観と客観の世界に落ち込むのは心の迷い。無意識を自覚する、無自覚の自覚。山を見て山を認識するのではなく、目に映る山そのものが無自覚の自己であると認識する。山と私の間には隔たりはない。山と私が一体となっていてる自覚、空と一体となり、河と一体となっていく自覚。宇宙と私は別のものではない。その自覚は万人が生まれながらに、生まれ出ずる前から持ち合わせて居る。意識が唯、邪魔をする。無自覚の自覚を釈尊は12月8日明けの明星に悟られた。釈尊一人だけが悟れるのではなく時代、民族、思想を超えて万人が釈尊と同じ自覚を体験できる。その自覚には対立した世界はなく、生と死の世界もない。悲しきかな我々は、そこに目を向けることをしない。自我意識の生み出した対立する有限の肉体(苦)と不安定な精神(迷)に振り回され続ける。

佛歴2550年正月
大門 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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