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第7稿 尊厳な命

人が亡くなるとその後に数多くの追善の法要を行います。宗派によって違いはありますが、四十九日までの七日毎の法要は大体同じく行われています。  初七日は不動明王。二七日はお釈迦様。三七日は文殊菩薩。四七日は普賢菩薩。

人身受け難し今既に受く 仏法聞き難し今既に聞く

文殊菩薩は智慧(知恵ではありません)の話をされます。そこで、普賢菩薩は実践を促します。どの様な実践かと申しますと「合掌」です。只、手を合わすだけです。  何に手を合わすのでしょうか。一緒に考えて行きましょう。

その前に、問題。各人の身体は誰の物でしょうか。命は誰の物でしょうか。  名前が書いてあるわけでもなく、どこかに登録をしているわけでもない。生まれ落ちてより、勝手に所有権を言いふらしている。証拠に、自分の物としても所有者に断り無く病気にもなる。歳を取る。最後は命を返さねばならない。全く自由にならない。

意識だけが所有権を無駄に叫んでいる。ま、知識や意識が大変邪魔な存在なのですが。  今日、「尊厳な命」と言うことをよく聞きますし、誰しもがそういうものだと認識しています。しかしそれは、知識(知恵)が認識しているのであって、本当に「尊厳な命」を自覚しているわけでは有りません。

普賢菩薩の言う合掌の実践は、相対する者の尊厳な命を讃えているのです。

四月八日、釈尊が生まれた。仏典には、母の摩耶夫人の右脇からこの世に出現し七歩あゆみ「天上天下唯我独尊」と宣言された。と、言う下りの話です。右脇から生まれないし、生まれて直ぐにも歩きません。まして発する言葉は「オギャー」です。後世に作られた話ではありますが、出鱈目な話ではありません。

天上天下唯我独尊=俺ほどスゲー人間はいない。と言うことです。言葉に足りない部分は、「あんたも、な!」お互いにと言う言葉でしょう。人類で初めて命に気づかれた歓びの声が「オギャー」なのです。誰にはばかることなく大きな声で産声を挙げたのです。この世に生まれることが出来た、この世に命を頂いた歓びの声です。その命に気づいた釈尊の生まれた風景を奇譚な話として作られたのでしょう。そう観ていくなら、納得も出来ます。しかし、我々は誰一人として自己の生まれた時のことを覚えてもいないし、体験した記憶も有りません。ならば、経験しましょう。眠りより覚めたら、大きな声で「(自分の名前)只今誕生」と叫んでみましょう。

三帰礼文に有る言葉が「人身受け難し今既に受く 仏法聞き難し今既に聞く」なのです。なにものにも代え難き命を、理屈(知恵)で理解するのでなく、体得(智慧の働き)しなくては物事の本質を見抜けない。

お互いの尊厳な命に、 合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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