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第5稿 連れ合いへの手紙 2002.5.10

5月10日 金曜日
 今朝も雨が降っています。朝5時少し前に目が覚め、窓からぼんやり見える景色を見ながらいると、三恵園(成人女性精神薄弱施設)の…さんや…さんが想い出されて、あの当時「なんでこの人達に生理があるのだろうか」(その言葉の中には色々な意味が含まれています。)といつも着替えの時に、女であることの卑しさ(言葉がうまく表現できません)が嫌でたまりませんでした。
 今、私はあの時、知恵遅れの…さん…さんを相手にしていたと気づきました。人間として対等に接していなかったのです。
 人間であるから病気もし死もあるのですね。又、生もある。
晴れの日は、晴れの日。雨の日は何か閃く瞬間があり、
        雨の日が好きになっています。土砂降りは駄目ですが……

 去年の八月から本当に今までの生活が一変した様に思います。なるようになるという、どんと構えて毎日を送れる様になるのは至難の技です。
 飛ぶ鳥を見て一瞬心豊かになります。身体の調子がよくなったと感じる瞬間でもあります。この豊かさが、身体の参っている時にあれば…。
                  荷物ありがとうこざいました。
                              のりこ

現在、この日本の社会では精神薄弱をどういった呼称で示すのか。知りません。精神遅滞、知恵遅れ。恥ずかしながらそれ以外知りません。
 認知症の父の手を引きながら、実に馬鹿げた訳の分からん病名を、人は付けたものだと感心する。どうひっくり返しても、私は認知できない。言葉の使い方を突っつくより、相対する命にどう接しているか。どう接するのか。こちらの方が重要ではなかろうか。
 差別のない社会、全ての人は平等である。しかし、社会には、上下の関係はある。差別もある。否定してはいけない。全て平等なのは「命」だけである。「人権」ではない。
今日は、十二月八日。釈尊がお悟りをひらかれた日である。尊厳なる「命」に目覚めた日である。いま生きている。生きている「命」に人類で初めて気づかれた日である。
 一遍上人であったか、野辺の花を見て泣かれた、「此処でお釈迦様が説法されている」と。只、花が咲いているだけ。意味を探すと、迷いに落ちる。認知症の父の手を引くのではない。只、年老いた父の手を引いているのである。

亡くなる四ヶ月程前、大阪の病院で書いたものであります。投函していません。手元にどの様にして届いたか判りません。雨が降ると確かに調子が悪くなりました。ある日を境に、落ち込む日もありましたが、残り少ない命をそのまま受け入れ楽しむ。とまではならずとも、其れに似た心境になっていたことは確かでした。

足元の気が付かないような小さな花に、自分の「命」を映し出す。素晴らしいお悟りであります。蛇足ながら、悟りも、命も理屈ではない。しかし、人権は理屈である。

だいもん合掌

―第118稿―
「張暑飽閉」の「春夏秋冬」

―第117稿―
春のお便り

―第116稿―
「正月」と「障月」

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