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第二回 大人(たいじん)はどこへ?

この6月、中国東北部・遼寧省最大の都市、瀋陽でかなりつらい1週間を過ごした。朝は5時起きだし、寝につくのは12時、1時がほとんど。仕事だったが、振り返ってみるとずいぶんと無駄な時間に追われてばかりだった。それは、み〜んな中国人スタッフと現場にいない彼らの上司のせいである。ま、そのいきさつはいずれ語ることとし、今回は別な話をしようと思う。中国ではよく知られた博物館を訪ねたからだ。瀋陽行きが決まった時点で、「九・一八歴史博物館」は克明に見るつもりでいた。ところが、その時間が捻りだせず、やむなく1時間ほどの駆け足観察となったのはいかにも残念ではあった。

折りしも反日攻勢が小休止を見せた時期ではあったが、北京、南京と並んで反日の拠点と称せられる瀋陽である。入場料20元(約260円)也を払いながら、多少の緊張を憶えたというのが正直なところだ。だが、週日の午前中とあって、入場客はほとんど見かけず、例に漏れず館内撮影禁止なのだが、たまに数えるほどの人をやり過ごしながら、これはと思う画像をモノにできたのは望外であった。この歴史博物館の外観も異様なのだが、展示面積9,000平米以上のほとんどが漆黒の闇に沈み、展示物だけがライティングされた、おどろおどろしい空間でもあった。


博物館本館はこの奇妙なシンボルの後側(以下写真はすべて筆者)

1931年9月18日、瀋陽(当時奉天)郊外の柳条湖付近で起きた関東軍と中国軍(というよりも統制のない匪賊、馬賊の類)の武力衝突事件が、満州事変の始まりとなった。江澤民総書記(当時)は、日本軍国主義糾弾のための愛国教育と国防教育の基地として「九・一八歴史博物館」を1999年にオープンしたのである。同様の目的で、北京の「抗日戦争記念館」(1937年7月7日日中全面戦争の出発点となった盧溝橋事件)、南京の「南京大虐殺記念館」(1937年12月13日南京攻略に際して起こったとする虐殺事件)が開設され、この3つの博物館・記念館は、日本が1930年代の中国侵略の正しい歴史を教えていないと絶えず非難する証として、いわゆる反日教育の牙城と化している感がある。


建物のあちこちに大書してある

なるほど、急ぎ足ではあっても、展示は2つの流れで構成されているのがはっきりとわかる。日本軍の悪逆非道ぶりをその証拠とされる文書や写真(撮影場所、日時、撮影者の説明はない)や蝋人形、模型、鹵獲(ろかく)武器などで示すこと、そして日本軍に抵抗した東北人民たる愛国青年の英雄列伝が綿々と展開される。当時兵力数十万人といわれた国民党軍は蒋介石の命で事を構えていないので、その英雄たちが後の共産党正規軍となる八路軍を形成したとして、共産党がいかに日本軍の陰謀を砕き勝利したか、というストーリー仕立てである。

中国首脳は事あるごとに「歴史を鑑として…」というが、これは江澤民の造語によるもので、館内にも写真のように掲げてあった。日本語も英語もいまひとつこなれた訳とは思えないが、そういえば入口には「まえがき」、出口には「まとめの言葉」が掲示されており、それぞれ英語と日本語の訳が付されている。どちらも相当の悪文で、理解不能のしろものである。いかにも心構えや何を感じたかを強要するような趣があって鼻白むばかりだが、それならばもう少し事実や言葉を大切にしてもらいたいものだ。帝国主義、軍国主義、虐殺、歪曲などといった非日常語の羅列ばかりで、いやしくも歴史博物館を名乗るからには、それなりの品格というものがあるだろうに。


例の迷せりふがこれ

一つだけ例を挙げておこう。翌年の1932年9月に起きた平頂山事件の展示があった。満鉄経営の撫順炭坑がゲリラ部隊に急襲され、炭坑職員5人が犠牲となった。翌日炭鉱の守備に責任を負う撫順守備隊が平頂山住人の一部を集めて機関銃などで殺害した事件だ。これをどう見せているかというと、大地に散乱する無数の頭骸骨や人骨で、無辜の人民3,000人を虐殺したと説明する。模型とはいえ、実に精巧に作られていて、思わずたじろぐほどの出来である。これを見る子供たちには強烈なインパクトをもたらすだろうし、日本の悪逆非道ぶりを摺りこむ狙いでもあるのだ。日本の博物館法に言うところの「教育的配慮の下に一般公衆の利用に供する」という規範など微塵もない。それに事実に関する基準などはなから無視しているのがプロパガンダたるゆえんである。当時の平頂山の人口は約1,400人であったという資料も残っているはずだ。

こんな誇張や日本攻撃のための事実の歪曲や捏造は枚挙にいとまがないのだが、この「平頂山事件展示」を見て頭をよぎったのは、2004年12月のニューヨークタイムズのハワード・フレンチ上海支局長による報道、「中国の日本叩きは国民的娯楽」というフレーズだった。そのひそみに倣えば、「九・一八歴史博物館」をはじめとする国民的娯楽の殿堂群は、愛国教育に血道をあげる共産党政権の御用達「お化け屋敷」と言ってよかろう。こんな代物を世界遺産に登録(南京)などと息巻く国際感覚の欠如には目を覆いたくなるものがある。たしかに展示物は迫真ものだし、鬼気迫る雰囲気を醸していた。画像もあるがあえて掲示はしないでおくが、これほど品質の高い(?)のが作れるなら、偽造やコピーなどに走らず、もっと実体経済に貢献したらどうかね。

瀋陽から帰った週に甥の結婚式でホノルルに行く機会があった。かねて願っていた真珠湾のUSSアリゾナ記念館には2度訪れることとなった。撃破され海中に沈んだままの戦艦アリゾナの上に建つ記念館内部は、大理石の壁面に戦死者の名前(1,177名)が彫られてあるだけで、花が供えられているほかは何の装飾も説明もない質素かつ厳粛なたたずまいである。戦艦の真上にしつらえた渡り廊下からは、いまだに海中から油の気泡が静かに浮いてはじけるさまが見られ、思わず合掌して犠牲者の冥福を祈らずにはいられなかった。記念館は海上にあるが、資料館は陸地にあり写真や現物、模型、さらには映像館などで、当時を偲ぶことができる。フィルムや説明の記述などに、プロパガンダ風の表現もないではなかったが、少なくとも事実を正確に伝える姿勢は堅持していると思うし、自らの歴史の押し付けなどはない。そんな中で目に留まったのは次の言葉だった。


戦艦アリゾナを跨る記念館。海軍のランチで往復

Please conduct yourselves with dignity and respect at all times. Remember this is hallowed ground.
(記念館は聖なる地です。尊厳の気持を忘れないように。)

こうして、2つのタイプの歴史の扱い方を体感することができた。どちらが歴史に真摯に向き合っているか自明であろう。大人(たいじん)という言葉は今もよく使われるが、悠々と構える超俗の人とでも言おうか。しばしば中国古典などに出てくる人徳者を「たいじん」と呼ぶようだし、人格の高潔な大物といった具合に使われることが多い。かつての中国要人には周恩来や劉少奇などにその名が冠せられてもきた。

だが、現今のユーラシア大陸の覇者たろうとする中国に、もはやその面影はない。

第八回
島嶼部アジア -インドネシア-
里山で遭遇した愛すべき生きもの

第七回
モンゴルの夏

第六回
ガンジス河を下る(2)

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